平成28年、西暦2016年一発目は、つい最近JENKEMに掲載された、ランス・マウンテンのインタビューです。
インタビューっていうか、プロスケーターの仕事とは何なのか、ということを、その変化の歴史とともに語ってくれています。ランス・マウンテンの言葉なので半端なく説得力があります。
「根っこは何処へゆく」的にも面白いインタビューです。
元記事:http://www.jenkemmag.com/home/2016/01/06/the-evolution-of-the-pro-skaters-job-according-to-lance-mountain/
JENKEM:http://www.jenkemmag.com
この半世紀以上もの間、スケートボードに乗ることに対してお金が発生してきたなんて、信じられるか?まあ正確に言えば、それは正しくないんだが。単純にスケートをすること以上に様々なことが、プロスケーターの仕事には派生してくる。こうした派生的なプロの仕事は、業界と社会の変化とともに進化してきた。業界内部の視点からこのプロの仕事を理解するため、俺たちはベテラン伝記作家、ショーン・モーティマーに頼んで、プロ・スケートボーディングの始まりからキャリアを持つレジェンド、ランス・マウンテンに、このアホにたいなオモチャから金を生み出すために何が必要なのか、そしてそれがどう変化してきたかについて話を聞いてみた。業界で成功したいなら、ペンと紙を用意して、メモを取るといいだろう。
始まり
1960年代、スケートボードが誕生した時期、ボードに自分の名前が載るのは有名なサーファーたちだけだった。デューク・カハナモクがプロボードを出してたんだけど、彼は伝説的なサーファーで、単に彼の名前が売れてたから、スケートボードにも彼の名前がプリントされていた。当時のスケートボードのカンパニーはサーフィンをルーツにしていたから、サーフィンの世界で有名な人の名前がスケートボードにも使われていたんだ。
でもスケート雑誌の登場とともに、そうした状況が変化してきたと、トム・”ウォリー”・イノウエが教えてくれた。1977年、彼はConcrete Wave Skateparkっていうパークでスケートをしていた。当時はシグネチャーモデルを出しているれっきとしたとしたプロ、ってのは存在してなくて、トム・シムスみたいな、つまりカンパニーのオーナーの名前が全てのボードに使われてるような時代だった。で、ウォリーがConcrete Waveで滑ってるとき、雑誌の撮影用にSimsのライダーが撮影しに来たんだけど、ウォリーのスケートがすごいことに気がついた彼らが、ウォリーにSimsのジャージを着させてフォトグラファーが写真を撮った。そしたらそれがSkateBoarder誌のセンターページに、見開きで掲載されることになったんだ。それからすぐに、ウォーリーはその年一番雑誌に載ったスケーターになり、それがプロの仕事となった。カンパニーの商品と一緒に雑誌に載れば、お金をもらえるんだ。ウォリーはSimsのライダーになり、その写真がきっかけとなってスケートで給料をもらえるようになった。その最初の写真が雑誌に掲載されて、初めてインセンティブをもらい、たまたまプロスケーターになれたんだってウォリーは言ってたよ。
ステイシー・ペラルタ、ラス・ハウエル、ジェイ・アダムス、ヘンリー・ヘスラーのような、シグネチャー・モデルをリリースしているプロもいたけど、当時はかなりレアなケースだった。でもウォリーは、こうした自分の名前が載ったボードをリリースしているプロたちと同じくらい、もしくはより多く雑誌に載っていたんだ。だからみんなも次はトム・”ウォリー”・イノウエのボードが出るだろうって思い始めた。それでSimsはウォリーのボードを試験的に作り始めたんだけど、その頃に別のCasterっていうカンパニーからプロボードを出さないかっていうオファーが来て、ウォリーはそっちに移籍した。そのときにプロの仕事には、「雑誌に載る」ってこと以外に、「デッキのデザインにも関わる」ってことが追加されたんだ。スケーターほどボードに何が求められているのかを知っている人間なんていないんだからね。そうして、スケーターたちはオーナーと一緒にシェイプやレイアウト、合板の薄さ、テールのキックの強さなんかを共同開発するようになった。当時はまだ始まったばかりでお金もそんなに発生していなかったけど、それでもCasterはウォリーの家の家賃を払ってたと思うよ。当時のほとんどのブランドはサーファーの大人たちが経営していて、若い子たちとのコネクションを持ちたがっていたから、ウォリーみたいにプロダクト・デザインに貢献できて、雑誌にも載れて、しかも他の若いスケーターをスカウトして来れるような、若い人材が雇われるようになった。プロスケーターってのはこの時期に、アスリートでもあり、デザイナーでもあり、タレント・スカウトでもあり、チーム・マネージャーでもあるっていうハイブリッドな存在になっていったんだ。
1980S
80年代
80年代初期までには、プロの仕事ってのはコンテストで優勝することになった。個人的には、いいプロスケーターってのはコンテスト以外でも色んなやり方で他と競争できると思ってたけどね。でも80年代は、コンテストでいい成績を残すってことがプロの契約では暗黙の了解になってた。それをちゃんと理解してたやつらは成功したよ。素晴らしいプロであっても、その流れに従わなかった連中は消えていった。カンパニーはコンテストで優勝できるやつらに金を払ってた。雑誌もそれに拍車をかけたよ。ほとんどの記事は誰がコンテストで新しいトリックをやったかとか、誰が上位だったかとか、そんなのばかりだったからね。コンテストに関係してないような記事を大きく取り上げるってことは、ほとんどなかった。
Variflexのチームに俺が入れたのも、いくつかのアマチュア・コンテストで俺が優勝したからだよ。でも彼らが俺をプロに昇格してくれた1981年ってのはスケートボーディングはあまり人気がない時期で、月々のボードセールスのインセンティブなんて15ドル(約1500円)とかだった。トニー・ホークですら、月に稼いだお金が80セント(約80円!)なんて月もあった。プロの収入源はボードセールスとコンテスト、それとデモだった。コンテストで優勝すれば、300ドル(約3万円)くらいはもらえた。デモをすると50ドル(約5000円)くらい。80年代初期は、プロはマジで貧乏だったから金を稼ぐためだったら何でもやってたよ。俺もKnott’s Berry Farmって農場でポータブルのランプを持って行ってデモをやって1日50ドルとか、Ralph’sってスーパーの駐車場で新しいヨーグルトの販売促進のためにデモをやったりしたよ。当時はトラックやウィール、シューズのスポンサーからは給料なんてもらえなかった。
みんながなんとかしようとしてた。80年代中期になると、デモはスケートボーディングを広めるための草の根運動的な役割を担うようになってきて、最終的にはPowell Peraltaの契約書にも年間36回、彼らのためにデモを行うってことが明記されるようになった。コロラドまで車を運転して、ジャンプ・ランプを出して、それ使ってスケートして、ストリート・プラントを披露したりして、またそれを車に積んで、みたいなことをしてた。そのコロラドのデモでは、雪が降ってて見に来てた子供たちが寒いからって店の中に入っちゃって、万引きして帰っちゃった。それで俺たちを呼んだスケートショップのオーナーから俺たちに金を払いたくないとか言われたよ。店に貢献してないデモに金なんか払えるかってね。当時はデモの会場でどんなセクションが用意されてるのかも分からなかったから、どんなものでもスケートできないといけなかった。アリゾナのYumaでやったデモのときなんか、気温が40度近くあってアスファルトも溶けるくらい暑くてさ。ジャンプランプで飛び出して着地しても、その場で止まっちゃうんだ。ウィールが4センチ近く地面にめり込んじゃって、前に進めやしない。しかもサインもめちゃくちゃ書かされて、デモが終わったあと何時間もサインしっぱなし。80年代はサインを頼まれまくったけど、90年代になるとそれがなくなった。
一度誰かが何かで成功を収めると、業界の全員がそれに続く。ステイシー・ペラルタが1984年に史上初のスケートビデオを発表したときもそうだった。これによって、プロの仕事に新しい扉が開けた。このときから、初めてビデオパートってのがプロの仕事の大きな部分を占めるようになっていったんだ。1984年当時も俺はプロだったけど、パウエルに移籍したときの契約だとプロボードのリリースは予定されてなかった。でもこの最初のビデオに出演して、俺のボードの需要ができたんで、パウエルは俺のプロボードを作った。それからすぐに、フランキー・ヒルみたいなスケーターが、ビデオパートだけを理由にプロに昇格するようになった。史上初めてね。もうコンテストで上位に入ったり、デモで滑れるスケーターでなくてもいい。ただ、記憶に残るようなパートを作ればいい、ってことになった。年上のスケーターたちには理解不可能なことだったよ。彼らはビデオパートでプロになった奴らを、簡単にプロになりすぎだと考えてた。全世代のスケーターたちが、このビデオパート時代の到来に苦労してた。それまでのビジネスモデルが通用しなくなったからね。そして90年代になるころには、プロの仕事ってのは単純に、斬新なストリートパートを作ることになった。
1990S
90年代
90年代になると、コンテストはもはや重要ではなくなってしまった。誰も今までやったことのないトリック、つまりNever-Been-Doneなトリックを撮影して、イカれてるくらい進歩したスケートを見せるってことが全てになった。雑誌にもシーケンス写真は載らなくなった。(トリックが難しくなった分)トリックをメイクしてるところを撮影するためには、高価なフィルムを大量に使わないといけなくなったからね。だからビデオで撮影して、そこからキャプチャーしたものを載せるようになった。進歩的でないものは、まっとうなプロのスケートとは認められなくなった。新しいトリックをやっていないプロはプロを引退すべきだ、みたいな記事がよくあったよ。バーチカルのプロなんて完全に干されてた。ボードに座ってダウンヒルを楽しんだりとか、単に面白がってスケートしたい連中の多くは、そういう当時ポピュラーだった前衛的なスケートに魅力を感じられなくなって、スケートをやめてしまった。
この頃になると、プロスケーターの定義も曖昧になってきた。もしプロが「スケートをすることでお金をもらっている者」とするなら、この頃からアマチュアも正直全員プロと同じだよ。70年代から90年代になる前までは、アマチュアのコンテストにエントリーしても、もし主催者側が君がデモとかでお金を稼いでいることを発見した場合は強制的にプロとみなされた。でもこういうルールはビデオで適用されなくなって、90年代に入ると会社はアマチュアに車もあげるし、何でも買ってあげるし、別の会社から引き抜いて自分たちのビデオに出演させるために金を払ったりするようになった。
プロの中でも、人前でも上手にスケートできるプロと、斬新なトリックを撮影することに多くの時間を費やすプロに、大きく2分されるようになった。NBDのトリックをビデオに収めるようなプロなのに、デモでスケートできない、メイク率の低いプロが出てきた。トリックの革新に集中しすぎるあまり、昔できてたトリックができなくなってしまうんだ。
その反面、ものすごくスケートが上手いのに、それほど前衛的でないプロもいる。結論としては、このどちらかのプロとして優れていた奴らが生き残った。エド・テンプルトンやマイク・ヴァレリーなんかは、当時そうした優れたプロだったおかげで今でも生き残ってる。エド・テンプルトンもマイク・ヴァレリーも、コンテストで優勝してたし、ツアーもやってたし、デモでも素晴らしいスケートをしてた。今でも彼らが名の通ったプロなのは、そういうことも理由のひとつだよ。
THE 2000S
2000年代
プロの生計の立て方は、2000年代に再び変化が起こった。服のブランドやシューズのスポンサーからも金が入るようになったんだ。Xゲームで一般大衆もスケートを目にするようになって、スケートと直接関係ないブランドからもスケーターたちは注目されるようになり、スポンサードされるようになった。そうやってプロの収入源は多様化していき、この時期にまったく新しい要素がプロスケーターの仕事に加わるようになった。それはメジャーのスポンサーがやれと言うことは何でも、プロスケーターの仕事になるってこと。成功しているプロの中には、ブランドのキャップを被ることだったり、コンテストのランの後にすぐにスポンサーのドリンクを飲むことなんかを、仕事としてやってる人たちがいる。ボードのスポンサーがいなくても、エナジードリンクのスポンサーから大金をもらってるプロだっていた。
THE 2010S
2010年代
この50年の間に色々なことが変わった。今じゃボードスポンサーは、そのスケーターをチームに入れる前に、そいつのシューズスポンサーや、他のメジャーなスポンサーが何なのかってのを気にするようになった。そういう他のスポンサーが、メディア露出のための多額の費用を払ってくれるからね。プロとスポンサーとの関係(どんなスポンサーがついているか)は完全に変わってしまったよ。現在のようなプロとスポンサーとの関係性は、ポール・ロドリゲスが現れるまで、スケートの世界では受け入れられないものだった。
ポールはリアルなスケーターたちからも認められつつ、企業スポンサーにも魅力的な存在となることに成功したんだ。それ以前は、コアなストリートスケーターたちは、企業からスポンサードされるようなプロを認めなかった。でもポールがその壁を壊すと、他のプロたちも、彼が手に入れたものを欲しがるようになった。今ではポールのやり方こそが、プロスケーターとしてベストな成功例だと考える全く新しい世代がいる。彼らのほとんどが代理人を持ち、企業スポンサーと広告出演の交渉を行っている。今はもう、全ては広告なんだ。
ソーシャルメディアの登場も大きいね。今多くのプロの契約書には、ソーシャルメディアを使ってスポンサーのプロモーションに貢献するってことが明文化してある。彼らはそのスケーターをスポンサーするかどうかを考える前に、まずそいつがソーシャルメディアでどういう活動をしているかをチェックしている。実際のスケートがいいか悪いかなんて分かってないよ。スケーターなら、スケーターを見ればそれがいいスケートかどうかちゃんと分かる。でも企業やビジネスマンにはそれが分からない。代理人だってそうさ。多くの代理人は、スケーターがスポンサーにとってより効率的な道具となるように、スケーターたちを作り変えられたと考えている。代理人によって色々と変わってしまったのは確かだけど、結局のところ、プロの仕事ってのはずっと変わってないんだよ。それは進歩を続け、スケートを好きになる人を増やすってことだ。それ以外の利益のことなんかは、自分たちがきちんと理解しているかどうかに関わらず、その仕事をやってるからこそ生まれるものだよ。
今はプロスケーターにとっていい時代だよ。今以上にスケートボーディングでお金を稼げるチャンスがある時代はない。でもスケートが今までと同じように成長していく保証もないし、変な感じにちょっと変わっていくかもしれない。何がいいプロスケーターかっていう議論には、誰もが参加できるし、それはスケートの歴史上今までにない状況だよ。トッププロですらソーシャルメディア上で叩かれて炎上したりするからね。
プロの仕事についての話をずっとしてきたけど、本当に素晴らしいプロっていうのは、単純に自分のボードを売るってこと以上のことをやろうとする人のことさ。本物の、記憶に残る、傑出したプロっていうのは、いつだって他人の考え方や気持ちを変えてきたし、それをすることでスケートボーディングの方向性を変えてきたんだ。
Words: Lance Mountain as told to Sean Mortimer (@judoair)
Original Illustrations: Michael Giurato (@badhairlife)
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にしてもこのCM、半端なくダセー・・・
オリンピックが近づくころには、日本でも誰かがこういうCMに出るようになるんすかね。
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